御由緒
● 村松大神宮御由緒

拝殿屋根 入母屋造千鳥破風

●飛鳥時代


大神宮の創立ははなはだ古く、「和銅年中(西暦700年頃)奉斎」と伝えられます。

神社明細帳によると

「和銅元年(西暦708年)47日平磯前浦の巨巌怪光を発射しその光眞崎の浦に留る。住民畏れて占う。『伊勢の神なり』と。垂示に従って奉斎。祀職伊勢より来りて奉仕す。」
と記されています。

おもしろいことに、近隣のいくつかの神社にも同じような言い伝えがあり、同じ頃に同じようにして創立されたことがうかがわれます。


●平安時代

桓武天皇
嵯峨天皇


その後
100年ほど経ち、桓武天皇御代(西暦800年頃)奉崇ありと伝えられます。次いで大同年中(西暦806810年)平城天皇より「村松五所大明神」の御勅號(天皇が名づける名前)を賜り、さらに嵯峨天皇の御代(西暦809823年)奉幣(天皇から捧げもの)あり、と記されています。


源頼義
源義家


時を経て、後冷泉天皇の御代・康平三年(西暦1060年)、源頼義・義家父子、奥州討伐の際に戦勝を祈願し、社殿の造営・神領の寄進がありました。


中世に至り戦乱の世となり、社殿も戦火を被り神領も侵犯され荒廃し祭祀などできる状態ではなくなり、戦火を逃れるため永享七年(西暦1435年)神璽(ご神体)を奉じて、奥州名取郡藤塚に奉遷したとの事です。



●江戸時代

徳川光圀公
徳川斉昭公



徳川幕府が開かれると、朱印地三十三石一斗九升と神地二十四町の寄進があり、元禄七年(西暦1694年)水戸藩主 徳川光圀公は、新たに神殿を造営され同九年あらためて伊勢皇大神宮より「御分霊」を奉遷、「天照皇大神宮」と奉称し、神宝・神器を奉納、参拝されました。以来、毎年正月十五日の春季大祭には水戸藩主の参拝を例としました。



神器の一 御神刀



天保四年(西暦1833年)徳川斉昭公は、藩主として初めて国に就かれるや、五月二日奉幣参拝され、安政四年(西暦1857年)には、国事多難にもかかわらず神殿の造営を起工、同七年一切の殿舎が竣工し、神宮尊崇・勤皇の精神を喚起されました。

勤皇の志士が多数参宮し、皇大御神の御神徳を仰ぎ、尊皇敬神の念を高め、明治維新の礎となり、萬延元年(西暦1860年)閏三月、櫻田門外において活躍した忠勇義烈の志士も当宮に参拝し成就を祈願、みごと本懐を遂げました。



現代
昭和三十一年より神池「阿漕浦」の水を日本原子力研究所へ分水。世論を分ける大論争となりましたが、「地域の発展と日本の未来のために」との先代宮司の英断によるものでした。それにより、わが国初の「原子力の火」をともすことに成功。以来核燃料サイクル開発機構・日本原子力発電株式会社・日本電信電話株式会社へも分水。新しいエネルギーの開発の源となりました。



水戸徳川家縁の神輿


拝殿横の神輿殿には、神輿が二基納められています。二基とも同じくらいの大きさですが、制作年代・経緯は異なります。水戸徳川家縁の神輿は、屋根と担ぎ棒に「三つ葉葵」の紋を有し、文字通り徳川斉昭公より下賜された神輿です。製作年代は不詳ですが、安政四年の造営時期とほぼ同じとすると、約150年前の製作と考えられます。屋根は金箔を張り詰め唐破風の曲線を描き、頂には鳳凰が羽ばたき、水戸徳川家の敬神の篤さがうかがわれます。

この神輿は、基本的に「飾り神輿」として使われ、担ぎ手により担がれることはありません。


 神輿

もう一基の神輿は、明治四年製作と明記されており、氏子崇敬者の篤志により奉納されたものです。屋根は直線的な切妻風で漆黒の屋根中央と担ぎ棒には大神宮の社紋である「十六菊の紋」が金色に輝いています。

この神輿は「担ぎ神輿」として、大神宮神輿保存運営委員会「一の宮会」の担ぎ手によって毎年二回勇壮に担がれ、地元の人々に親しまれています。